独りであること、未熟であること、それが私の二十歳の原点である
これは、学生運動の時代に生き、20歳6ヶ月という若さで自ら命を絶ったある女性が二十歳の誕生日に日記に残した言葉である。
19歳から20歳の時、この言葉を軸にして、孤独でいることを選んでいた。
その頃は他人なんて一生分かり合えないと思っていたので、独りでも生きられるように自立したほうが百倍ましだと考えていた。
だから、特定のグループにずっといることも、親友と呼べるような人がいることもほぼなかった。
twitterやFacebookに友達との楽しそうな写真と共に熱い言葉を載せている投稿を見るたびに、"なんて薄っぺらいんだろう"とか"結局は自慢したいだけだろ"とか心の中で悪態をついていたし、凄くイライラしていたのを覚えている。
他人と距離を置くことで、どんどん心は冷たく乾いていって、人と共にいることで得られた素晴らしさなんて、すっかり忘れていた。
そして乾ききった心は脆く壊れやすい。
だから、自分を守るため他人を無条件で憎むまでにエスカレートしていったし、自分と他人の間に築き上げられたバリケードは高くて気づいたら信用できる人間など残っていなかった。
"独りであること、未熟であること、それが私の二十歳の原点である。"
望んだ通り、孤独になった。
だけど、同時に不幸になった。
自分が目指したのは、他人を頼らず独りで生きることができる"強い"人間だったはずなのに、気づいたらとても弱く、幸せから一番遠い場所にいた。
ここまで来て、心がカラカラに枯れ果ててしまったということに気がついた。
人間は生きていく上で受容が必要なのに、自己受容すらもできないままに孤独になっていた。
自分は"孤独な人間"と"自立した人間"を履き違えていたのだ。
前者は他人を拒否し自分をひたすら愛するしかないけれど、
後者は他人に感謝し、自分も他人も愛することができる。
「辛くても他人に頼るな」という強者の理論は、自分を苦しめるだけだった。
ほとんどの人間は、そんなにつよくない。
辛くなったらちゃんと誰かに助けを求めていいのだ。
先日、心から友達がいて良かったと思えることがあった。
今は誰にも頼らない世界よりも、人と助け合ったり、人の夢を応援したりして前向きに生きていく世界の方が断然楽しいとわかっている。
これからも人と共に生きることを大事にしよう。
明日も生きよう